#22 優先席は君のためにある

私の隣は空いている。

 

私の目の前に座っている男は韓国海苔をパリパリと食べている。その隣に座っているブルーノ・マーズを意識した男は、iPhoneで音楽を聴いている。

 

私の隣は空いている。

 

 

プラスチック板を挟んですぐ左にいる少年は、松葉杖を突いていた。

 

優先席はまばらだが、空いている。

 

 

 

なぜ、座らない。

 

私は二人掛けのシートに座っている。

 

何度でも言うが、私の隣は空いている。

 

プライドの高い男は嫌われるぞ。

 

何度でも言う。まばらだが、優先席も空いている。

 

君のために空いている。

 

なぜ、座らない。

 

 

 

今日は最悪だったんだ。

 

シリーズものの映画を観た。前作を観なくても大丈夫。その言葉を信じて観た。

 

初っ端から話が分からない。知らないキャラばかりが出る。味方が一人、また一人。私の海馬はもう限界。

 

最後は悲惨であった。

 

ポカンと開いた口がふさがらない。そんな最後であった。

 

落ち込んだ気分を取り返そうと、駅ビルの本屋で小説を衝動買いした。

 

電車の待ち時間。ひたすら読んだ。

 

面白い。

 

これは電車に乗っている間も楽しめる。そう思いながら座席で読み始めた時、君が現れた。

 

 

 

「発車まで、あと五分ほどお待ちください」

 

車内アナウンスが流れる。

 

松葉杖を突いた少年は少女と喋っている。

 

ははん。

 

わかったぞ。

 

好きなんだな、その子が。

 

その子と喋りたいから、我慢して立っているんだな。

 

そんな君を、彼女はかっこいいと思っているだろうか。

 

わからない。心の内が。

 

一つだけわかっているのは、少女が少年と喋るのをやめて、友達と喋り始めてしまったことだけ。

 

フラれているじゃないか。

 

私の隣は空いている。

 

 

 

体がわずかに揺れる。

 

車窓から見える景色が、少しずつ、流れていく。

 

少年の体も揺れる。私より。

 

優先席はすべて埋まってしまった。

 

だから言ったじゃないか。私の隣は空いている、と。

 

心の中で。

 

あの子は君を見向きもしない。

 

一所懸命立っている君を。

 

そうでもなかった。ドアに寄りかかっていた。

 

やるな。その手があったな。

 

私もよく使うんだ、その手は。でも、今日は座っている。集中して小説を読みたかったから。

 

君のせいであまり集中できていないが。

 

 

 

ふと、少女が私の前に来る。

 

身構える。膝が震えた。

 

私の前を横切り、私の隣にあるボックス席に寄る。

 

友達が座っているのだろう。私の斜め前で、ボックス席に寄りかかりながら、立ち話を始めた。

 

彼女の肩にかかったピンクのナップサックが、私の膝に擦れている。

 

擦れてますよ、お嬢さん。

 

 

 

向こうから、女性の車掌が歩いてくる。

 

目が合う。

 

彼女の瞳孔が、ほんの少し、開いたように感じた。

 

私を見て、次に松葉杖の少年を見た。

 

発車してから、何分経っただろうか。

 

優先席は、今はまばらに空いている。

 

空いているんですよ、車掌さん。

 

もっと言えば、私の隣も空いている。

 

優先席は空いているんだ。

 

優先席は空いていますよ、と言わないあんたも悪い。

 

お客様に向かってお辞儀をしてからこの車両を出る律儀さがあるのなら、なぜ少年には語りかけないのか。

 

大丈夫ですか、と。

 

こいつのここ空いてますよ、と。

 

言葉づかいは多目に見よう。

 

 

 

もうすぐ私の駅に着く。

 

小説に栞を挟み、バッグにしまう。

 

私の目の前にいる韓国海苔の男は、首がだらんと下を向いている。隣のブルーノ・マーズも下を向いている。

 

この二人が降りてくれれば。そう思っていた。

 

もう韓国海苔は食べないし、ブルーノ・マーズも聴かない。今後一週間は。

 

私の隣にいる少年は、ずっと立っていた。

 

私は、もう降りる。君はどうする。

 

少年は、リュックサックを背負い直した。

 

ここか。

 

君もここなのか。奇遇だな。私もだ。

 

すまなかった。情けない大人で。

 

どこかで。誰かが。期待して、期待して。

 

何も変わらなかった。

 

君が座ろうが、座るまいが、どうでもよかったじゃないか。

 

変な空気になったら、車両を出ればいいじゃないか。

 

なんで私が?

 

プライドが高いのは私じゃないか。

 

 

 

 

ガタン。

 

夜風が、頬に吹きつける。

 

私の斜め前にいた少女も降りるようだ。

 

少年と少女が降りるのを見てから、私も降りる。

 

少年はまた少女に話しかけながら、松葉杖を突いて歩く。

 

うまくいけばいいですね、と。

 

車窓に目を向けると、スマホを見ている人が多い。

 

みんな下を向いている。

 

さあ、帰ろう。

 

前を向くと、最後尾の窓から顔を出す車窓さんと目が合う。

 

また、合いましたね。

 

少し睨めたような、寒そうな、そんな目で。

 

 

 

 

私の隣はずっと空いていた。